団員リレーエッセイ弁護士の声
「死を悲しむことができない」つらさ(木下 正一郎)
新型コロナ感染状況も落ち着いている2021年12月上旬、大学時代の友人らに久しぶりに会いました。昔の友人にしかできないような青臭い話で勝手に盛り上がり、今闘っているHPVワクチン被害のことを話しました。
ワクチンつながりで新型コロナワクチンの話が出て、友人の一人から、ご近所の知り合いの息子さんがワクチンを打って3日後の朝、亡くなっているのを発見されたという話を聞きました。何も健康に問題のない、成人の息子さんだったとのことです。このようなことがあったからといって、誰かが原因を明らかにして謝ってくれるわけでもありません。何も分からないままに過ぎ、特にお母様は茫然自失で何もできない状態に陥っているとのことでした。
その友人は、そのお母様が「死を悲しむことができない」と言っていました。
私は、「死を受け入れることができない」という言葉で、突然、医療事故被害者遺族となった方々の気持ちや置かれた立場を分かったつもりでいました。
しかし、「悲しむことができない」というのは、置かれた状況を説明するのに、これ以上的確な表現があるだろうかと思われました。大事な人を亡くして本当は悲しいはずなのに、通常の出来事でなく、「なぜ」という思いばかりが渦巻いたり、受け入れる用意もない出来事にそもそも何も考えることができなかったりで、「悲しむことができない」・・・。想像するにつらすぎます。
私もいつの間にか弁護士になってから20年を超えました。医療事故事案を受ける度に、「医療機関は事故の被害者の立場になって考えてほしい」などと言っていましたが、いくつも医療事故事案を受けるうちに自分自身が想像力を欠如することになっていないか。他の場面で受ける指摘でも、そのように反省することが最近はありました。
20年の経験を経て、弁護士として被害者のためにできることの限界も重々承知するようになって、限界があることをできない言い訳にしていたようなところもありました。しかし、限界があるなら限界があるで、「悲しむことができる」手伝いをしっかりとしなければ、と感じました。どこまで行っても、普通の「悲しむことができる」状態とは違うことは理解しつつ・・・。
私が言葉にすると、うまく表現できず軽くなりますが、精一杯感じたことを著しました。
以 上