公正な医療事故調査制度の確立を求めて チラシ配布・署名活動を 次の日時・場所で,行いました。
<第119弾>2020年1月25日(土)16:00~17:00
場所 JR中央線 中野駅 北口ロータリー
公正な医療事故調査制度の確立を求めて チラシ配布・署名活動を 次の日時・場所で,行いました。
<第119弾>2020年1月25日(土)16:00~17:00
場所 JR中央線 中野駅 北口ロータリー
弁護士 山本 悠一
その日、事務所の法律相談に訪れた初老の男性は、私が相談室に入室するや否や、自身が通う病院や担当医師の対応・説明への不満を滔々と語り始めました。曰く、10年以上前から人工透析をしているその男性は、透析時の医師の態度や説明、看護師等医療従事者の言動について、大小様々な不満をお持ちであり、透析先の病院を転々としているとのことでした。そして、話を聞くにつれて分かったことは、そのような不満が生じたのは、どうやら初めて透析を受け始めた際に医師から十分な説明がなかったことに原因があったようでした。
相談を担当した私は、ふと「医療者と患者の対話」という言葉を思い出しました。昨今、医療現場では「対話」が必要とされており、「対話」するということは患者と医療者が対等な立場でお互いの考えを深く理解できるように関係性を構築することであるといいます。しかし、患者が抱える疑問や不安を、患者自身が医療者に対して適切な形で伝えることは、伝える術を持たない者にとっては相当困難であることは間違いなく、医療者との間でコミュニケーションが不十分なため、医療者に対して不満を持つことになることは十分にありうると思います。医療者に患者の思いを伝えることも私たちの役割ではないかと身にしみて感じました。
そんな私も、弁護士10年目となり、多くの医療事故被害に関する相談や事件を担当させていただきました。先日も、現在担当中の医療過誤調査事件について、知人の医師を訪問し、意見を聞いてきました。知人医師は、当該事件の問題点、一般的な医療水準の説明に加えて、一人の医師としてあるべき対応が何かなどを細かく丁寧に説明してくださり、医療には素人の私にも分かりやすく教えてくださりました。私たち患者側弁護士の弁護活動が、このような心ある医療者の協力なくして成り立たないものであることは周知のとおりです。
私が事件調査を通じて出会った協力医の先生方は、みな真摯に、より良い医療の実現を目指して尽力されている方ばかりです。死亡原因を明らかにするために、福岡まで医師の見解を確認しに行ったことがありますが、その医師は小児科医として、医療者側、被害者側の双方の立場で多くの意見を述べておられます。ひとえに、より良い医療の実現を目指しているからこそ、患者側、医療側といった枠に止まらない活動が実践されているのだと思います。
また、医療事故によりご長男を亡くされた方からお話を聞く機会がありましたが、その方は、ご家族の医療事故をきっかけに、「うそをつかない」「情報を開示する」「ミスがあれば謝罪する」の三原則を制度として根付かせることを目指し、患者・家族と医療者の対話を進められています。失意のどん底にあったその方を現在の活動に向かわせたのも、心ある医療者の理解であったといいます。医療事故被害者を救うのが、これもまた医師であったことに驚きました。
この10年間、先輩弁護士の方々から、様々な場面において、「患者・家族を支援する弁護士と医療者を支援する弁護士のいずれについても、安全で、より良い医療の実現を目指す一員であることに変わりはない」ということを教えていただきました。弁護士10年目の今、改めて、患者側対医療側という構図に無用に与することなく、医療問題弁護団の理念である「より良い医療の実現」を目指して、真摯に活動していきたいと思いました。
弁護士 安原 幸彦
今年6月、ある法律雑誌に、医療訴訟を裁判長として6年間手がけたこともある現職の裁判官が、要旨、高齢者が医療過誤で亡くなった場合の慰謝料を大幅に引き下げるべきだという論文を掲載しました。現在の実務では、医療過誤の損害算定にあたり、原則として交通事故の損害賠償基準と同一の基準、慰謝料でいえば2000万円以上を認めています。それを大幅に引き下げる方向で変えていこうというのです。医療事故被害者の救済に取り組む私たちにとって看過できない主張です。
この裁判官は、このように考えるきっかけになったのは、ある病院長の次のような発言だったと述べています。 「私たち医師は、神様ではないから手術の際の不注意により患者さんを死亡させてしまう可能性がある。しかし、死亡慰謝料が一律最低2000万円であるならば、高齢者に対する手術はお断りした方が安全ですね。」
この裁判官は、この発言に衝撃を受け、的確に答えることができなかったそうです。皆さんはどう思われますか。私はこう思います。この院長の発言は、医療側が医療過誤訴訟を攻撃する時によく耳にする議論です。曰く「医療過誤訴訟が医療を萎縮させ、医療の発展を阻害し、結局は多くの患者に不利益をもたらす」。この医療萎縮論には大きく3つの間違いがあります。日本の医療過誤訴訟は医療を萎縮させる程被害患者を救済していないこと、損害賠償について医療だけが聖域に置かれる根拠がないこと、そして被害を受けた患者の視点が全く欠けていることです。院長の発言に即して言えば、お断りなんかしないでしょう、不注意で人を死なせても仕方ないということですか、死なされた患者のことは考えないのですか、と問い返したいと思います。
またこの論文では、交通事故の基準を医療事故に当てはめることに対する疑問として、交通事故では健康な者が突然被害に遭うのに対し、医療事故はもともと何らかの疾患を有し健康を害している者であることを挙げています。わかりやすく言えば、どうせ病人ではないか、どうせ死に近い高齢者ではないか、というわけです。
しかし、誰もが思うように、死ななくても良い者が死んでしまった無念は病人であろうが、高齢者であろうが何も変わるところはありません。このような患者や高齢者をないがしろにする見方は、医療事故に限らず、医事紛争の根本原因になるものです。
私は、ある医療過誤訴訟に関する書籍で、次のように書きました。
「被害克服のポイントは、事実の究明、被害に対する補償などを通じて憎しみ(あるいは仇討ち・後悔)の感情から少しでも脱却することである。」
「医療機関に誠実な説明や謝罪をさせることも医療被害克服に資するところが大きい。」
この論文では、この記述を引用して、医療過誤訴訟は「真実の発見と憎しみの解放を目的とすることから、とりわけ、慰謝料について異なる基準で算定すべきではないかという提言をするのが本稿の目的である。」と述べています。お金を目的としていないのだから、慰謝料は安くても良いだろうというわけです。
医療被害克服のポイントとして私が指摘したことは、私が考えたことではなく、医療被害を受けた方々から学んだことです。誠実な説明や謝罪の持つ意味も同様です。40数年の経験を通して、その確信は揺るぎないものになっています。しかし、まさかそれを慰謝料低額化に利用されてしまうとは思いもよりませんでした。医療被害者の皆さんに申し訳ない気持ちで一杯です。
今後こうした考え方が裁判所の主流にならないよう医療問題弁護団としても論陣を張っていこうと思います。
以上